■シェーバーこと始め
あなたが毎朝使っているシェーバー(電気カミソリ)はいつ、だれ、が作ったのか知っていますか?

■パッカード・レクトロシェーバー   
(シック・シェーバーの最初の競合)

パッカード・レクトロシェーバーは現存していないブランドです、1953年頃まで続いたといわれていますが、シック・シェーバーに対抗して造られた「世界最初の競合」シェーバーとして取り上げます。シック社から「特許侵害で訴訟」され、判決は二転三転して終結には1939年までかかります。


パッカード・レクトロシェーバーの製造・発売元はディクトグラフ社です。同社は炎の出ないライター/フレームレス・レクトロライト・シガレットライターを開発、宣伝好きの社長のアーチー・モールトン・アンドリュースがハリウッド俳優を使った雑誌広告を多用して順調に売り上げを伸ばしていました。このライターもユニークなライターとして現在でもコレクターアイテムとなっています。

 

アーチー・M・アンドリュースが1934年シカゴ万博で、そのレクトロライト・シガレットライターとともにシック・シェーバーを販売し、シック・シェーバーの中西部地域の販売権を交渉してヤコブ・シックに断られて激怒。それならと、自分でシックに対抗するシェーバーを開発、工場立地もシックに対抗してコネティカット州スタンフォードのシック社のそばに建て「パッカード・レクトロシェーバー」として生産。

同じような話で、フェラーリの対応に怒ったランボルギーニ社(トラクター製造)の社長ランボルギーニが自分でフェラーリに対抗する車を作ったのが例のランボルギーニです。 フェラーリとランボルギーニは1962年の話ですが、このアーチー・モールトン・アンドリュースは車にも関係しています。

ライターやシェーバーのビジネスはディクトグラフ社の事業でしたが、短期間ハップ・カー・カンパニーの会長を務めました。
宣伝好きのアーチー・M・アンドリュースがはじめた(顧客に見込み客を紹介させる)キャンペーンが訴えられて会社を追われます。
ハップ・カー・カンパニーはアメリカの中堅のメーカー(CG誌によれば「比較的大衆車向きの下級中級車」)で 1908年から1941年までハップモビルというモデル名で生産しました。
1940年にはコード社810/812の金型を買って後輪駆動のランニングギアを移植(コード社の810/812は先進的な前輪駆動として有名、810/812を最後に倒産)して生産。
廉価な価格にもかかわらずモダンなデザインで好評でしたがデリバリーが間に合わず、ハップモビルもこのモデルを最後に他メーカーに吸収されます。
2枚目の写真は1934年「エアロダイナミック」で、当時の売れっ子デザイナー レイモンド・ロウィーがデザインしたセダンで、三分割のフロントウインドー、後傾したグリル、ボンネット・フードに一体化したヘッドライトなど名前の通り流線型をコンセプトにしたモデルでした。ちなみにハップ・カー・カンパニーはレイモンド・ロウィーがアメリカに来て最初に車のデザインを請け負った会社でした。
そのレイモンド・ロウィーは1940年にはシック・シェーバーの後継機種のデザインをしていますが、そのデザインテーマもやはり(当時流行の)流線型でした。(この詳細はシックの項であらためて、、、)


モデル詳細
パッカード・レクトロシェーバーはその成り立ちから容易に想像できるように、それが発売になるとシック社から特許侵害で訴訟されます、裁判所は侵害を認めますが、ディクトグラフ社は不服として上告し、決着まで5年もかかりました。
パッカード・レクトロシェーバーの特徴は円筒形の刃です。その円筒に水平に空いたヒゲの導入スリットの両側に各37個のミゾを持った刃がついています。
内刃は同様に円筒形状で外刃に「内接」して軸方向に摺動します。
外刃のミゾの幅は0.2mmほどで、幅約0.6mmの刃が36個ついています。内刃の振幅は0.5mmほどしかなかったため 0.2mmのミゾの片工程(往路のみ)でしかヒゲを切れませんでした。


また、モータの回転を刃の往復運動に変換するための「偏芯ピン」がモータ軸を伸ばした先端にあり、その偏心ピンで直接内刃を動かす構造のため内刃の振幅量に限度があり0.5mmほどになりました。


しかしその反面、「モーターの電流開閉接点」 「スターターの弾みホイール」 「偏心ピン」 とすべての主要部品をモーター軸上に収めたシンプルな構造で、シックのシェーバーに競合するためのコストメリットは大きかったに違いありません。


パテント訴訟
ディクトグラフ社はパッカード・レクトロシェーバーに関するパテントを1934年5月に申請、従来のシェービングヘッド(すなわちシックのことですが、、、)では確実にヒゲをカットできず、自身の円筒型のヘッドはそれらの不都合を改善したと主張しました。
シックは直ちにパテント侵害を訴訟 裁判所は侵害を認めますがディクトグラフ社は上告します。
1937年一旦ディクトグラフ社パテントはシックの請求範囲を侵害しないとの判決が出ます。
審理は続き1939年に前判決は破棄され ディクトグラフ社は上告を撤回して結審、シックの勝訴となります。
ディクトグラフ社は1941年パテント自身を放棄しています。 1939年のこの結審は大きなニュースだったようで当時のニューヨークタイムスも下記のような記事を出しています。
二人の主役 ヤコブ・シックもアーチー・M・アンドリュースもこの結審を見ることなく一年足らずの間に相次いで亡くなってしまいます。


訴訟の決着記事
1939年9月26日のNYTimes :「DICTOGRAPH AGREE TO SHAVER DECREE」(ディクトグラフ社シェーバー判決に合意)という韻を踏んだ見出しで、ディクトグラフ社が上告を取り下げたこと、と共にこの却下の判決が遅かったために多くの競合の参入を招いたことや、シックがシェーバーを売り出した1930年には3000台しか売れなかったが今年(1939年)は百万台の見込みと、シェーバ市場の伸びを伝えています。


広告
パッカード・レクトロシェーバーの広告で有名なのは 二人の子供が遊びでヒゲを剃っている写真を載せた雑誌広告です。パッカード・レクトロシェーバーの広告を調べるとこの広告しか出てきません。よほど多く出稿されていたのでしょうか。 電気カミソリを創ったシックの最初のメッセージも(剃刀の)切り傷の心配が無く「安全に使える」ことでしたが、パッカード・レクトロシェーバーの広告は子供を載せることで極め付きでした。

シックとは常に競合して価格競争を繰り広げていました、たとえば1938年シックが発売当初からの売値「15ドル」を「12.50ドル」に値下げ。 ディクトグラフ社は即座にパッカード・レクトロシェーバーを「15ドル」から半額の「7.50ドル」に値下げ。当時としても大ニュースだったようでTIME誌が取り上げています。 ちなみに当時の15ドルは現在の300ドル以上。